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真幸くあらばまた還り見む
映画は見ていない。HPをのぞいたら、脚色によって原作から遠く外れた作品のように思えたから。

きっかけは、数日前、大阪のパチンコ店放火事件で弁護側が「絞首刑は残虐で違憲」と主張する方針だと新聞で読んだことにさかのぼる。

最近、意識の外に追いやられていた、憲法第36条「公務員よる拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる」を、記事はワタシに引き寄せてきた。

首にかけた革ベルトで人を吊るして死なせる方法がいかに残虐であるか、フィクションとはいえ綿密な取材に裏打ちされた作品の力を借りて想像しようとしたのだった。

が、その目的の前に作品を通して、死を前に生を凝縮させていく人間のつつしみ深さ、無限の精神性に圧倒されてしまう。

遊ぶ金欲しさにひと組の男女を殺害した南木野淳は、一審死刑判決の後、自ら控訴を取り下げ、死をもって罪を償う決意をする。殺された男には別に婚約者がいたが、その婚約者である茜は、公判の傍聴を通して淳に無意識下で魅かれていく。

茜と淳は限られた面会よりはむしろ、差し入れ、宅下げされる書物(とりわけ聖書)への書き込みを手段として心を通わせていく。当局に見つかれば、面会はおろか一切の通信が許されなくなると知りながら。

やがて2人は観念の中で性的に結ばれていくが、そのことがかえってエロティックで、生きる望みに対する切なさをえぐってくる。

殺された人間の無念や遺族の悔しさは、いかに回復困難だとしても、これほど変われる人間、愛するに値する人間へと昇華する可能性を見捨てることはできない、してはいけない社会なのだと、あらためて。

何の落ち度もない人の命を奪うという暴力は、断じて許されない。そうと知りつつ、一方で、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(新約聖書ヨハネによる福音書第8章「わたしもあなたを罪に定めない」)という一節を人は心のどこかに持っていなければと思うのである。

物語の終盤、淳は茜への果てしない想いを胸に刑場へと向かう。後ろ手錠のまま、喉ぼとけの3センチ下に革のベルトをあてられ、7メートル下に床は落とされる。小柄な淳は16分33秒かかって、頸椎が折れ、軀は宙をくるくる回り、やがて静かに揺れ、白い覆面を血で染め絶命していく。

こうした刑が憲法違反に当たらないとしてきた社会の残虐性。それは一つに自分自身や係累する者とは無関係な制度と高をくくっている人々がほとんどだからではないだろうか。

ワタシはこれまで幸運にも人を殺めることなく生きてきたけれど、これから先もそういう衝動に駆られることがないと言い切る自信はない。その不安が、制度を遠くに押しやれない原因なのだと思っている。

磐代の浜松が枝を引き結び真幸くあらばまた還り見む  有間皇子

この歌から作品のタイトル「真幸(まさき)くあらば」は生まれたという。

(第608号)
# by Rika-news | 2010-02-08 19:27 | 瀬戸際の憲法 | Trackback | Comments(0)
あいさつをくれる人
遊歩道の途中、緑が深まった場所にたいていその人はいる。あまり遠くへは行けそうもない歩調で、この季節にしては薄着で一定の区間を行ったり来たりしている。

耳たぶの線で切りそろえられた銀髪はきれいに梳かれ、うっすら笑みをうかべているか、遠くの空に視線を泳がせては何かぶつぶつとひとり言をくりかえす。

はじめて挨拶を受けたのは2年ほど前。長身の背中を猫背に折って、よろよろとその人は歩いていた。追い越しざまに大声をかけられ、一瞬、両肩が上がるほどびっくりした。

鳩が豆鉄砲を食ったというのは、ああいうときの顔をいうのだろう。たぶん、そんな間の抜けた顔で、ワタシはその人の顔をみた。

声の勢いとは裏腹に、その表情はありとあらゆる社会的制約からほどかれ、気持ちよく放念している顔であった。

一拍も二拍も遅れてやっと「コンニチハ」と返したが、不思議とその声はその人の様子に合わせるように大いに少女じみていた。

それからというもの、ウグイスが鳴くときも、セミが大合唱するときも、ドングリがコツコツ地面に落ち始めるときも、北風がほおを刺すときも、その人は挨拶をくれる。

姿が見えないで声だけ聞こえたときは、きょろきょろしてしまうが、生垣の向こうからそよぐ銀髪と目だけを出していたりする。

そんなときは口角をあげ、会釈だけして行き過ぎるのが暗黙のルールになっている。

(第607号)
# by Rika-news | 2010-02-07 11:39 | ココロにおきたい人 | Trackback | Comments(0)
裏の人
もっと早くその存在に気づくべきだった。

そこに置いた覚えのない本がへんてこな場所から見つかったとき、お風呂のお湯の設定温度がいつの間にか42度に変わっていたとき、コートの内ポケットに夏の日の山手線の切符を見つけたときに。

ひとり暮らしのワタシはそれらすべてを自分の勘違いとして片づけてきた。けれど、それは間違いだと知った。「裏の人」の仕業だったのだ。

小川洋子の「夜明けの縁をさ迷う人々」に収められている短編「パラソルチョコレート」は、「裏の人」の存在をワタシに気づかせた作品だ。

「裏の人」とは、つまりはユウレイである。ワタシの場合、幸か不幸かまだその人に出くわしたことはない。

それでもワタシにピッタリ張りついて、死んでいるのに確かに存在している、ややこしい人である。ワタシが家を空けているとき、「裏の人」はワタシの家で勝手に書棚の本を読み、湯を使ったりしている。

ワタシが家に戻ってくると、入れ替わりに今度はワタシの車でどこかへ行くか、ちょっと遠出したりしてけっこう気ままに暮らしているみたい。ワタシの裏であることに飽きるまで、あちらの世界へは還りそうもない。きっと、居心地がいいのだ。

「パラソルチョコレート」では、女の子の裏によれよれのおじいさんが張りついていた。意地悪や怖いことは何もしないおじいさんだったけれど、留守の間に家にやってきて、女の子のパラソルチョコレートを勝手に食べ、その包み紙を落としていくというドジをふむ。

そのうえ、人恋しさにおじいさんは女の子が手術をして麻酔でもうろうとしているとき、大胆にもベッドのわきまでやって来て女の子との会話を楽しむ。麻酔が切れたら、どうせ女の子は忘れてしまうからと、自分にいいわけまでして。

女の子の方はおじいさんを気味悪がるでもなく、それどころか、おじいさんのことが気になって会いたくて、忘れ物をしたふりをしておじいさんが忍び込んでいるに違いない家に急にとって返し、フェイントをかける。

けれど、こちらとあちらの世界の人間はそう簡単には会えないことになっている。その一線を簡単に破るまいとするおじいさんの、ちょっと切ないけじめが見え隠れしている。

物語を読み終え、ワタシは一計を巡らせた。今朝、机の引き出しをすっかり閉めずに出かけてみたのだ。はたして、帰ってくるとその引き出しはピタリと隙間なく閉じられていた。

どうやらワタシの「裏の人」は几帳面な性格で、海音寺潮五郎の歴史小説が好きで、お風呂のお湯は42度がお好みらしい。あとは……不明。

手術をする予定はないので、夢にでも現れ顔を見せてくれたらいいのに。どうせ忘れてしまうからと。

(第606号)
# by Rika-news | 2010-02-05 19:11 | ココロにおきたい人 | Trackback | Comments(0)
ファン
朝青龍が引退した。泥酔したうえ一般人に暴行し、そのことをもみ消そうとしたとここ何日間か報じられていた。その騒動の責任をとっての引退らしい。

少し前に離婚したときには女性問題が理由だと報じられた。けれど、いつも本当のことは分からなかったし、本当のことを知りたいとも思わなかった。

報道されていることが事実なら、とりわけ格闘技を業としている人間として絶対に許されないことだ。

そして、絶対に許されないことだとしても、朝青龍のファンであることにいささかの揺らぎもワタシにはない。

いけないことをしたから、もう、ファンではない!などというヤツらは、次の生贄(対象)を探して彷徨えばよいのだ。

17歳で高知の明徳義塾に相撲留学。それで朝青龍明徳というスモ―ネームが生まれた。

まだ思春期の頃、この国にやってきて、この国の人々が育て、この国の人々に愛され、この国の人々に非難され、この国での日々に苦しみ、この国の国技を今日やめる、朝青龍。

ほんとうに、ごくろうさま。あなたが勝ったときに見せる、あの憎たらしいしぐさがワタシは大好きでした。

(第605号)
# by Rika-news | 2010-02-04 18:04 | antiな日常 | Trackback | Comments(0)
あいこでしょ、じゃんけんポン!訴訟
直感として、「あとだしジャンケン」ということばが浮かんだ裁判である。

昨年12月25日、大阪府が原告となった政務調査費返還訴訟で、大阪地裁が原告実質敗訴の判決を出した損害賠償事件のことだ。

ことの経緯は、大阪府議会議員の2004年度と2005年度の政務調査費の使途に目的外支出があったとして、府外部監査委員が知事に返還を求めるよう勧告を行ったことに始まる。

勧告を受け、知事が当該議員に返還請求を行うも、当該議員はこれに応じず、府は返還を求め訴訟を提起した。そして、大阪地裁は監査委員の勧告内容とはうらはらに当該議員が政務調査費の返還を行う必要はないという判決を出したのである。

で、何があとだしなのか。「報告」である。ご承知の通り、政務調査費制度では使途の透明性確保が根拠法の趣旨のひとつであるから、制度を導入した自治体では、いずれも政務調査費の収支報告書の提出を義務付けている。

昨今は、到底調査活動とはいえないふざけた使途に批判が強まり、領収書の添付を義務付ける自治体も増えてはいる。が、最低限義務付けられているのが政務調査費収支報告書である。

大阪府も今でこそ領収書の公開(市民視線からはまだ不十分)を行っているが、訴訟対象年度は収支報告書提出義務しか課せられておらず、市民がその使途を知ろうとすれば、手がかりは収支報告書以外にはない。いわば、透明性確保の頼みの綱の報告書なわけである。

話がそれたが、その頼みの綱的報告書をもとに監査したところ、目的外支出が見つかったため、府は議員に「返せ!」と裁判でせまったのだった。

ところが、議員曰く、収支報告書には政務調査活動の一部を載せただけで、未報告の政務調査活動があった。その未報告の活動にも経費がかかっているから、府から「返せ!」といわれている額を未報告活動分に充当すれば、返す必要がない。

つまり報告書には載せていなかった活動分があることで、返還すべき金員をチャラにできると主張したのである。堂々たるあとだしジャンケンポン!である。

そして、なんと。報告書にはすべての政務調査活動を記載しなくてよいということが、府議会事務局が作成した「政務調査費のしおり」に書かれていたのだから、びっくら仰天である。

この「しおり」の存在を盾に、政務調査活動の未報告行為は議員の故意過失とはいえず、損害賠償を負う義務はないという主張がまかり通ったんである。

議会事務局=役人があとだしジャンケンを予期してかどうかは不明ながら、そういうチエを議員につける役人も役人なら、そういう役人に給料を払ってきた大阪府も大阪府ってことで、あいこでしょ!じゃんけんポン!の世界なのである。

まことに情けないのは市民ばかりというわけだ。

(第604号)
# by Rika-news | 2010-02-02 20:32 | 議員の素顔全開・政務調査費 | Trackback | Comments(0)
陳述内容
午前10時から堺市政務調査費返還訴訟の法廷に出席、以下の通り陳述した。
Ⅱ 各論
 1 「会派等が行った」と認められない調査活動
(1)「会派等が行った」要件具否の重要性
  2009年12月10日付け準備書面(4)で主張した通り、2005年度の政務調査費の支出が適法であるかどうかは、第一に「会派等が行った」調査研究活動であることが認められなければならない。

  そして、その要件は平成19年(行ヒ)170号事件(公金不当利得返還等請求事件差戻し審・判決平成21年7月7日)の判決をもとに、①具体的な調査研究活動ごとの内容報告②政務調査費から支出を求める金額の申請③会派代表者の活動内容の承認④経理責任者からの金額の承認⑤経理責任者から金員の交付を受けた事実を挙げたところである。

  同判決は上記要件を充たす事実が存在した場合は、調査研究活動ごとに会派の意思統一がなく、各所属議員の発案による活動であっても「会派が行う」調査研究活動と認める余地があるとしている。

  そうであるなら、個々の調査研究活動において会派の意思統一がなされていなかった場合は、なおさらこれら要件の具否が厳格に問われなければならない。仮に、調査研究活動ごとに会派の意思統一がなく、所属議員が相互に調査研究内容を認知しないまま、その上、会派代表者も個々の活動内容を把握承認せず、経理責任者も各支出が妥当かどうかの判断承認を行っていないならば、「会派等が行う」の意味をまったくに没却させることになるからである。



(2)補助参加人あたらしい風の実態
 ア 要件①具体的な調査研究活動ごとの内容報告が行われていなかった事実   
(A)調査研究活動の内容報告の期限
  2005年度の政務調査費の収支報告書は2006年4月末日までに提出されなければならない(本件条例6条2項)。従って、調査研究活動に着手した時点において、その活動に会派の意思統一がなく、各所属議員の発案によるものであったとしても、遅くとも当該期日までには、具体的な調査研究活動ごとの内容報告が所属議員から会派に対して行われているはずである。

  そうでなければ、収支報告書は単に所属議員の支出額を合算しただけの数字合わせの報告書と化し、併せて提出が義務づけられている事業実施報告書(本件規則8条1項)も表面的、形式的な記載に終始してしまうことになる。これでは透明性確保の目的で唯一市民に公開される両報告書が、なんら目的の実質を伴わない文書となり、透明性確保を求めた法の趣旨から逸脱する。

 よって、収支報告書には会派等が1年間に行った調査研究を事業や活動ごとに説明し、透明性確保の目的を果たすに耐え得る記載がなされなければならない。そのために会派等は、各所属議員から調査研究活動の具体的な内容報告を受け、収支、事業実施の両報告書を作成すべきものである。
  
 従って、両報告書の提出期限は、会派の意思統一なしに行われた調査研究活動においては特段に、要件①具体的な調査研究活動ごとの内容報告を行う最終機会なのである。

 そうであるから、この期日を超えて会派代表者や経理責任者の承認が取り消され、収支報告書が訂正された場合及び、さらにそのことによって金員が返還される事態となった場合は、当該会派内では活動事後の報告、承認さえ行われていなかったことを意味するものである。

(B)活動の事後報告、承認が行われていなかったことを証する事実
 このことをあたらしい風にあてはめてみると、本訴訟の前提となった住民監査請求の後①新幹線グリーン料金、②政務調査活動以外に使用していた事務所費の一部、公聴費等の一部、③資料作成費のうち印刷機リース代(以上本松洋一支出分)、③広報費のうちの写真撮影代(山中優子支出分)について、政務調査費を充当することは不適当と認め、収支報告書を3度にわたって訂正(甲A9号証及び甲A第29号証)し、結果的に当該年度に交付された政務調査費から3万1千500円を市に返還した。

 もし、あたらしい風の調査研究活動が、会派の意思統一のもとに行われたもの、あるいは事後であっても会派代表者の承認がなされていたなら、訂正やそれによって一部政務調査費を返還する事態は起こり得なかったはずである。

 それができず、3度も訂正報告を行ったことは、調査研究活動について共通理解が図られていなかったからであり、会派の意思統一があったとはいえない。
   
 イ 要件②政務調査費から支出を求める金額の申請
要件③会派代表者の活動内容の承認
要件④経理責任者からの金額の承認
要件⑤経理責任者から金員の交付
が行われていなかったことを証する事実
(A)政務調査費の管理実態
 あたらしい風の所属議員であった山中優子のホームページには、2005年度政務調査費収支報告にかかる記事(甲A第28号証)が以下の通り記載(一部抜粋)されている。「堺市議会では、各会派に対して、議員1人当たり月額30万円の政務調査費が支給されています。『あたらしい風』では、政務調査費をそれぞれの責任で管理することにしています。山中優子の2005年度政務調査費の収支をご報告いたします。」
  
 このうち、「それぞれの責任で管理する」は、交付された政務調査費を経理責任者ではなく、各所属議員の管理下に置いていることを意味し、少なくとも要件②~⑤の手続きを経ることなく、各所属議員の判断によって政務調査費を支出できる環境にあったことを示している。
  
 もし、そうではないと反論するなら、政務調査費を管理するため設けた預金口座の通帳(本件規則7条5項、同6項)を裁判所に提出し、調査研究活動ごとに出金した事実を証明すべきである。

(B)会計帳簿の不調整
 政務調査費の出入金状況については、経理責任者は会計帳簿を調整し管理保管しなければならない(本件規則7条6項)。しかし、あたらしい風では2005年度の政務調査費の会計帳簿を、当該年度報告書提出期限を1年以上過ぎた2007年5月29日時点でも調整していなかった。

 このことは本訴訟の前提となった住民監査請求において、市監査委員が同会派の経理責任者であった本松洋一に対し関係人聴取を行った際、本松が以下の通り(一部抜粋)述べていることから明らかである(甲A第29号証・関係人聴取記録2ページ)。
  
 「会計帳簿というものは、形式が定められていないということなんですけれども、その時に申し上げましたのも、現金出納簿のようなものは作成を当然しております。ただし、要するに、政務調査以外の活動の支出もありますので、その二つに書けておりませんで、全部網羅しておりますので、政務調査だけを抜き出した会計帳簿等にはなっておりませんが、整理し直せば、そのような会計帳簿となると思いますので、そういう意味での帳簿は作成しております。」。

 つまり、関係人聴取が行われた2007年5月29日の時点で、整理し直さない限り、政務調査費の会計帳簿が調整されていないことを、経理責任者であった本松が認めているに等しい。このことは本件規則に反する。

 なお、上記関係人聴取録中、本松の発言「その時に申し上げましたのも、現金出納簿のようなものは作成を当然しております」に対し申し添える。「その時」が、本松の領収書を当方が閲覧した時を意味しているとするなら、当方は本松から同趣旨の発言を聞いていない。そればかりか、「会計帳簿を作成しているなら見せてほしい」と願い出た当方に、本松応えて曰く「そんなん、作ってるとこない」とした。
 
 この発言を受け、後日、山中に会計帳簿の有無について確認したところ「作っていない」という趣旨の回答を受けたからこそ、住民監査請求の際、堺市監査委員にその点を特段に申し述べた次第である。

(C)「会計帳簿」の閲覧
  ところで、同会派は2009年8月~10月にかけて、同代理人事務所において、当方の求めに応じ「会計帳簿」を閲覧に供した。しかし、それは上記事実からして2007年5月29日以降に調整された、いわば「後づけの会計帳簿」であったといえる。
  
  実際、閲覧してみると後づけであることを物語るずさんな記帳が目立った。それには「年月日」「使途項目」「領収書番号」「支出額」は記載されているものの、摘要欄がなく何に支出したか皆目不明で会計帳簿としての体裁をなしていなかった。

  また、交付額や発生した預金金利などを記載すべき「収入額欄」、収支ごとに変わる「残額」の記載もなかった。本来、収支を時系列に記入すれば、当然記載されるべき欄であるところ、いかに様式が規定されていないからといって不自然な文書であった。
 
  加えて、領収書番号も連番せず、所属議員ごとに番号を採っており、先述の(A)政務調査費の管理実態を裏づけていた。以上の点から、預金口座の出入金状況と「会計帳簿」を照合する必要があると考えるので、補助参加人あたらしい風に対し会計帳簿、領収書及び支払証明書を裁判所に提出するよう求める。

(D)支払証明書のみによる金員の交付について
 政務調査費の支出においては、領収書によって証明された金額をもとに支出申請をする議員が支払伝票を作成する。そして、支払伝票をもとに経理責任者が申請した議員にその金員を支払うものと考える(本件規則7条2項)。

 領収書の提出だけで支払われることがないようにした意味は、支払伝票(同様式第8号)の各欄に記載する内容を会派代表者が承認することは無論、その金額が活動内容に照らして妥当かどうかを経理責任者が判断するためと考える。
  
 よって、領収書を徴取することができない場合において、支払証明書(同様式第9号)のみを作成した場合は、支払証明書は単に支払いの事実だけを証明するにとどまらず、上記承認をも含んでいると解釈すべきである。

 そうでなければ、領収書が徴取できない場合の方が、徴取できた場合に比して活動の内容承認や支払いが妥当かどうかの確認が疎かで済むことになってしまうからである。
  
 上記観点をあたらしい風にあてはめてみると、領収書を徴することができなかった場合においては支払証明書のみを作成し、支払伝票は作成されていなかった。従って、支払証明書は領収書に代わる支出証明であると同時に、その調査研究活動の内容が会派代表者によって承認され、かつ、支出金額が妥当であるという判断を経理責任者が行ったという意味を持つものでなければならない。

 ところで、支払証明書には証明を願い出る者及び、証明する会派代表者、経理責任者の氏名記入欄、押印欄が設けられている。この氏名欄は自署でなければならないとの規定はなく、押印をもって自署に代えるものと解釈する。

 しかしながら、領収書を徴取できなかった支出において、要件②~⑤の具否判断には、使用された印鑑が容易に入手可能なものである場合には、記入された証明者の氏名欄と照合しつつ、当該支払証明書が真正であるかどうかを見極める必要がある。

(E)支払証明書の作為    
 上記(D)について、あたらしい風の実態を見てみると代表・吉川守は2005年度、携帯電話代を事務所費から支出する際、その支払い方法を毎月自動的に吉川の口座から引き落とす形を採用し、領収書を徴取せず支払証明書を作成している。
  
 このうち、たとえばM-31、M-35の番号が付された支払証明書において、経理責任者氏名欄に記された「本松洋一」は本松本人の筆跡とは明らかに様相を異にしている。
  
  また、山中優子は事務所の光熱水費、管理費等を支払証明書により支出しているが、たとえば2-(11)、1-(26)の番号が付された支払証明書において、経理責任者氏名欄の「本松洋一」は複写物を使用したと思われる。
  
  併せて、これら支払証明書に押印された「本松」の印はインク内蔵式ゴム印であって、誰もが入手しやすいものであった。
  
  このような文書によって「証明」された支出については、仮に支払の事実が別の方法で明らかにされたとしても、上記(D)で述べたとおり、経理責任者の承認を経たと見るには大いに疑問である。加えて、同会派において支出手続きを形骸化させていたことを強く推認させるものであり、上記アの②~⑤の要件を充たしているとは認め難い。
 
  以上の主張の通りであるから、補助参加人あたらしい風に一切の証拠書類を裁判所に提出するよう重ねて求める。

                                  以上

(第603号)
# by Rika-news | 2010-02-01 21:25 | 議員の素顔全開・政務調査費 | Trackback | Comments(0)
費消された公金の山
堺市政務調査費裁判の期日が近づくにつれ、訴訟資料が次々届いている。

公明党が「支出簿」を、フェニックス民主が「出納簿」を、自民党市民クラブが「現金帳」なる名称の会計文書を裁判所に提出した(いずれも2004~2005年度分)。

堺・美原市民ネットに所属していた前議員からは、領収書と支払伝票のコピーが提出された。

訴訟提起から2年半、ようやく会計帳簿もどきの書類提出でちらほら足並みそろえようか・・・というところ。

何につけてもカタマリで動くことが好きな堺市議会である。

それにしても正直、「会計帳簿」の様式が規定されていないからといって、ここまで都合よく解釈した様式にするとは存外である。

ちょっと見ただけでムカッとしてしまうのは、摘要欄にあまりに多い「食事代」や「飲食費」の記載(自民党市民クラブ)。思わず使途項目に「食費」があったかなと錯覚(んわけないでしょ)する次第。

どこか懐かしい「浄水器カートリッジ」なんてのもある。松岡利勝元農相を彷彿させる。成仏できたかなぁ、あの方・・・。

ほかに「7人分」「12人分」なんてのもある。意味不明である。分かっているのは支出金額がそれぞれ7万円、12万円で、一人当たり1万円ってことだけ。

外部の者にはちんぷんかんぷん。こんな記載が平然となされるのも、これら書類がこれまで日の目を見ることなくきたからに他ならない。

膨大な書類の山を眺めていると、それに見合う公金が市民のチェックを受けることなく費消されたのだとつくづくと思う。地方議会の審議能力の向上に見合っているかどうかは別として。

(第602号)
# by Rika-news | 2010-01-30 14:25 | 議員の素顔全開・政務調査費 | Trackback | Comments(0)
脛に疵もつ身同士?
著者はテレビでおなじみ、ミャーミャーと名古屋弁がちょっと下品な河村たかし現名古屋市長である。

で、まあ、わざわざ読むほどの内容でもない、というのが感想だ。

ただ、則竹勅仁(のりたけ・くにひと)名古屋市議との対談はオモシロい。

則竹名古屋市議は民主党員でありながら、名古屋市議会の民主党会派を除名された人だ。

その理由は初当選早々、公約を実行したからという、うすらバカげたもの。

その公約とは議員特権である費用弁償(議員でありながら議会に出席するたび1回1万5千円が支給される制度=金額は当時)の受け取り拒否である。

そもそもこの公約を掲げた候補者を公認しておきながら、当選後、実行したら民主党名古屋市議会議員団は、嫌がらせはするわ、会派全員一致で除名するわ、挨拶しても無視するわで、子どものいじめさながらの愚挙に出る。

けれど、嫌がらせをすればするほど、両手両足で特権にしがみつく議員の姿が暴露され、情けないこと、恥ずかしいことこのうえない。結局、今年1月5日に費用弁償の全廃を決めた名古屋市議会だが、どこの議会も似たような低レベルなエピソードには事欠かないようだ。

ま、則竹市議は以前、河村たかし市長が衆議院議員だった頃、その秘書を務めていた関係もあって、民主党公認を取り消されることなく今日に至っている。

公約を実行しようとしただけでこの騒ぎである。まして、同僚議員の政務調査費の使途の違法性を指摘するなんてことは、議会内ではご法度なのだろう。

それが証拠に、役人が10万ネコババしたら、目の色変えて追及する議員も、同僚議員が政調費を違法支出してるとうすうす知りながら、どこ吹く風のていたらくなのである。

これでは、報復を恐れているか、それとも、お互い脛に疵もつ身だから?と思われても仕方ない。

(第601号)
# by Rika-news | 2010-01-29 17:16 | 議員を穿つ・政治を穿つ | Trackback | Comments(0)
物語を創りながら
人はなぜ物語を必要とするのか。

その問いに深い納得を与えてくれた一冊である。

もし、この世界を生きる人々の日常が、順風満帆で何一つ受け入れがたい困難が訪れないものだとしたら、この世界に物語は生まれなかったかもしれない。

たとえば、誰にでも訪れる最大の困難として愛する者との別れがある。受け入れがたい現実を人は無意識のうちに自分の心の形に合うよう変形させ、なんとかそれを受け入れようとする。

自分の心と現実との間に橋渡しを試みるのである。そのときの心の動き、折り合いのつけ方が、その人にとっての物語となると著者は云う。

自殺というかたちで息子洋二郎さんを失った作家、柳田邦男さんの話が出てくる。正義感が強く、詩人のような感性と純粋さをもった洋二郎さんは、その純粋さゆえ孤独に苦悩する。そして、25歳で11日間の脳死状態の末、人生を閉じる。

11日間に柳田さんは洋二郎さんの日記に「ほんとうは生きたかった」というメッセージを見つけ、その思いをくんで、父は息子の腎臓を移植提供することに同意したのだった。

息子さんが亡くなった夜、洋二郎さんの腎臓は星空を自衛隊基地から九州へと飛び立っていった。その様子を実際に目にしたわけではない柳田さんだったが、「夜空の星の中を引き継がれた命が運ばれていく」場面を思い描いたという。

まさに、息子との別れという受け入れがたい現実を、柳田さん自身の心に合うよう組み立てなおした一つの物語といえるだろう。

思うに、困難にみまわれたときだけでなく、心躍る瞬間も、何の変哲もない日々でさえも、人は現実をうんと引き伸ばしたり、小さく丸めたり、あるいは角っこを折り曲げたりしながら「現実」の形を整える。

そういう意味では、物語は空想や作家の頭の中から生まれるのではなく、現実に潜んで形づくられるときを待っている、と著者は云う。生きているかぎり、人は物語に救われ、勇気づけられ、だからこそ物語を愛し、読むことを書くことをやめないのだろう。

毎日、毎日、短い物語を創りながら人は生きている。人がこの世界に生きるかぎり物語は存在し続ける。


(第600号)
# by Rika-news | 2010-01-27 20:45 | ちょっとイイもの | Trackback | Comments(2)
2004~2005年度政調費 公明党堺市議会議員団の「支出簿」解禁
公明党堺市議会議員団の訴訟代理人からずっしりと重いエクスパックが届いた。開けてみると、内容物には2004~2005年度の(政務調査費の)支出簿と書かれている。A4紙にしてざっと300枚以上。証拠説明書なる文書がついていて、その立証趣旨たるや「政務調査費が適正に支出されていること」だそうだ。

これだけで?というのがとっさの所感である。こう云っては何だが、作ろうと思えばいくらでも作られる文書のみをもって証拠というので拍子抜けしてしまったのだ。領収書とセットになってない支出簿を見せられても、おいそれと信じられるだろうか。

もっとも、各支出に対応する領収書コピーがつけられていたならダンボールで送られてくるだろうから、受け取る方も覚悟がいりそうだ。ま、当該会派は当方の直接の相手方ではないので、紙の山の置き場所を心配する必要はないが。

で、その支出簿なる書類をパラパラ繰ってみると、さまざま所感が湧いてくる。一般市民感情を持ちあわせた人がご覧になれば、きっと多くの疑問、突っ込みどころを発見することだろう。

幸い、当該会派はこの資料に関し「裁判以外には使用禁止」などとケチな条件はつけていないので、ご覧になりたい方はお申し出ください。もっとも、堺市長に対し「政務調査費裁判における補助参加人から出された資料一切」で公開請求するという手もある。

当該会派が開かれた議会を目指す会派なら、法廷外でも議論が深まることをきっと願っているだろうから、公開請求をむしろ歓迎するのではないだろうか(爆)。いわば本日が公明党堺市議会議員団の支出簿閲覧解禁日というわけだ。

さて、当方も昨日付で準備書面を裁判所と関係代理人に送付した。その内容は関係代理人が遅くともご覧になるだろう2月1日の法廷後に当ブログで公開することにする。

(第599号)
# by Rika-news | 2010-01-26 18:58 | 議員の素顔全開・政務調査費 | Trackback | Comments(0)
要らない、要らない、要らないってば、ホントに要らん!
沖縄県名護市長選挙で、米軍普天間飛行場の県外移設を明確に主張する候補者が当選した。これを受けて、マスコミは鳩山政権が移設先検討に苦慮するだろうと一斉に書きたてている。

云うまでもなく、苦慮するというのはこの国に日米安保が必要という前提あってのことである。そこで、沖縄のあの美しい海を犠牲にする代わりに、我が街に米軍飛行場が移転してくると日本中の人々が想定したとする。

すると第一に、うわーい!うれしい!待ってました!と手ばなしで喜ぶ自治体はどこにあるのか、という問題がまずある。

第二に、そもそも、米軍に守ってもらわなければ何が危ない、どこの国が攻めてくるのかという根源的な問題もある(この際宇宙人は想定外)。

そういう議論をすっ飛ばし、冷静に世界情勢を分析することなく、屋台骨が傾いた政権をつつくのは、報道をかさにきた一種のいじめにもワタシには見える。

小沢and鳩山政治資金疑惑とは是々非々なる姿勢をマスコミに見いだしたいが、どーもこの際、もうちょいイビッてしまえ的論調に見えてしかたない。

そもそも、日米関係が米軍飛行場問題一つで空中分解してしまうほど、やわな関係なのか(いやたまに、この国は脅されるひ弱パトロンにも見えるが)。そうだとしたら、これまでの政府の対米政策はまさに軍vs軍の義理とフンドシしか結ぶことができなかった、いわば屁みたいな外交であったと認めざるをえまい。

日本中が米軍にNO!を突きつけなかったのは、今日まで対岸の火事よろしく沖縄の米軍問題を受け止めてきたからにほかならない。沖縄だろうが、大阪だろうが、グアムだろうが、そして沖縄と同じく米軍被害を受け続けてきた韓国であろうが、要らないものは要らない、この際、一切。

そして何より、理想を口にできないような政府は要らないし、日米安保を根源的に問い直さないマスコミも要らない。米軍とともに失せてしまえ!お前たち!なんである(3合飲んだところで書いているが、全然正気)。

(第598号)
# by Rika-news | 2010-01-25 19:33 | ニッポンのしんぶん | Trackback | Comments(0)
ムダに流される国
裁判の準備書面を打つその横で、テレビは小沢一郎記者会見の模様を流していた。朝刊もまた検察の事情聴取が行われたホテル前にすごい数の報道陣を写していた。もしも、この事件が起きていなかったなら、この人たちは昨日今日何を報道していただろうか。

虚偽記載やゼネコンからの資金提供疑惑がなかったら・・・検察やマスコミは、ほかのどんな事件にエネルギーを費やしたのだろうか。そして、なによりこの事件の報道を読んだり見たりしている日本中の人々は、昨日今日もっと広い視野のどこに焦点を当てただろうか。

政治とカネ。くり返されるやりきれないほどのムダの連続を、あとどれくらいこの国は重ねるのか。と、そんなことが頭に浮かんで、キーボードを打つ指が重くなる。政治家が生み出す疑惑によって、この国の総エネルギーの何パーセントがムダに費やされているか、はじき出せるものなら出してもらいたい。

アホらしくてテレビを消し、ニューヨーク・タイムズのサイトでハイチ震災後の画像をみた。正気なのか、虚ろな目で通りの真ん中に座り込む人。積み上げられ焼かれる遺体。焼け残った手足。腕をもがれ立ちつくす子ども。略奪。撃たれ血を吐いて倒れる男。瓦礫の下から見つめる少女の目。

こういう画像から無力感を噛みしめることに慣らされている自分は、それだけで十分にあさましい。まして、今向かい合う、人が生きていくこととはあまりにかけ離れた狂気な議論の中、何やってんだろうかと滅入ってくる。

(第597号)
# by Rika-news | 2010-01-24 18:36 | antiな日常 | Trackback | Comments(0)
人形を持つということ
これも何かの縁だろうと思って読んでみた。

りかさんは、ようこちゃんの市松人形の名前。本当はあの「リカちゃん」が欲しくておねだりしたのに、おばあちゃんから贈られたのは、それはそれは黒髪も立派なりかさんだったのだ。

失望するようこちゃん。でも、りかさんはそん所そこらの人形とは違っていた。超能力を持ち、人と話もできるし毎日ごはんだって食べる。

悲しんだり、怒ってる人形のココロを見抜き、なんとか元気で幸せになれるよう、ようこちゃんとおばあちゃんも巻き込み三人四脚で知恵を絞る、賢くもやさしい人形なのだ。

人形には人形なりの苦労がある。本書の解説を書いている人形史研究家の小林すみ江氏によると、古来、人形の原点は「形代」として、人の身代わりという意味から発したという。

人形を見て可愛いい、美しいと感じる時もあれば、こわいと感じる時もあるのは、人形が人のココロを映し出す分身であるがゆえ。人形とは元来、人の思いを常に預けられるサダメにある。

持ち主によっては疲弊し、悲しみに明け暮れる人形もあれば、慈しまれ、幸せに時を刻む人形もある。りかさんは人形を幸せにすることで、その人形の持ち主を幸せな気持ちにし、やさしい気持ちをもったその人が、人形を慈しむという相関を結ばせていく。

女の子が人形遊びが好きなのは、抱えきれない感情を無意識のうちに人形に託しているからかもしれない。絶えずことばを人形にかけながら遊ぶ姿は、そうやって日常の中の小さな理不尽や、うまく説明できない悔しさを紛らわしているのだろうか。

現実には見えないけれど、見ようと思えば見えそうな不思議な世界。体温を感じる人形物語。
画像はワタシの市松ちゃん。名前はつけていない。

おんなの子の方は震災時に転落、お顔に傷を負ったものの、いつも二人並んで箪笥の上からワタシを見守ってくれている。

(第596号)
# by Rika-news | 2010-01-23 12:10 | ちょっとイイもの | Trackback | Comments(0)
見たいところを見せてくれますか
このところ、毎日のようにJALからメール。東京地裁から会社更生手続きの開始決定を受けただの、マイレージは確実に保護されるだの、顧客つなぎとめに必死の様相である。

テレビではインタビューを受ける乗務員などが、示し合せたように、そろいもそろって安全性を強調する。だが、これまでも現場のコストは相当削られてきた。本当に安全性に問題はないのだろうか。

地方、なかんずくド田舎に飛ぶときなどは、提携航空会社の小型機に乗ることが珍しくない。搭乗口がなんと地面!にあって、とことこ機体まで歩いて行って、5段くらいのタラップ!をのぼる。

別に、機体が小さいから不安なのではなく、キャビンに踏み入った時、「あ、年代物!」と感じる時ほど不安なものはない。シートなんかもう毛玉ポロポロで、機内サービス用の収納カートが傷んでボコボコだったりすると、「ダイジョーブか・・・」と心細い。

見えるところにさえ堂々たるコスト削減を確認してしまうと、見えないところはさぞやと勘繰るのである。そんな時、離着陸はもちろん、通常飛行中に異音を耳にしたりすると、すがるような視線で乗務員を見てしまう。

そして、彼女たちがいつもと変わらぬ笑顔だと、「ああ、この人たちはその寸前まで笑顔なんだ、きっと」と、さらに怖くなったりする。もし、危険だったとしても、本当のことはギリギリまで知らされないだろうと確信するほど怖いものはない。

顧客はいつだってホントのことを知たいだけである。

安全!安全!と100回聞かされるより、信じられる根拠を見せてほしいのである。

要は情報公開だ。見たいところを見せてくれるかどうかが、JAL再生のカギ。

送られてくるメールにその兆しが見えるまで、このカードはしばらく出番がない。

(第595号)
# by Rika-news | 2010-01-20 18:10 | 求むカイゼン | Trackback | Comments(0)
口にした瞬間、消えてしまう氷のカケラ
映画を見る気はないので、原作を読んでみたら、鮮やかに場景が浮かびあがる映画さながらの物語だった。1975年のバンコクが舞台。

その約10年後、あの街の路地を歩き、水上バスに乗り、スコールのあとの湿った空気を吸い、ことあるごとに胸で手を合わせる人々と触れ合ったからだろうか、作中の匂いまで嗅ぎとって読んだ気がする。

航空会社の現地支社に駐在する東垣内豊は、数か月後に結婚を控えながら突然目の前に現れた沓子と狂おしい恋に落ちる。

とまあ、はなから絵にかいたような展開でズッコケそうになるが、この物語の値打ちは後半以降にあると信じて読み進む。

時は流れて25年。そりゃ、もう、あっさりと東垣内は55歳。沓子はそれ以上の年齢となっての再会である。(どうしましょうね、このベタな展開を!)。

東垣内は平穏な家庭を手に入れ、旺盛な野心を満たし重役の地位に就いていたが、沓子のことを忘れて生きてきたわけではなかった。

沓子もまた、幾たびか心許せる男とめぐり逢いながらも東垣内を忘れることができないでいた。

原作では東垣内の妻は沓子の存在に気づくことなく物語は終わる。が、映画では石田ゆり子演じる東垣内の妻光子が中山美穂演じる沓子に、訊く。「豊さんがあなたに一度でも愛していると云ったことはありますか」と。

答えはノー。沓子はそんなことばを求めなかった。求めずともよかったから。けれど、25年の後に東垣内はそのことばを沓子に、沓子も東垣内に口にする。ただし過去形で。

さらに時は流れ、ついに最後の再会の時が訪れる。もう、この時を逃しては二度とふたたび会えることはないと知ったその時、東垣内と沓子は互いにそのことばを何度も口にする。過去形ではなく、今現在発することばとして。

そういえば、前に読んだ「燃ゆる樹影」(藤田宜永著)でも、別れた2人の二十数年後の再会が描かれていたけど、最近、こういうのが流行りなんだろうか。

ワタシ的には「燃ゆる~」の展開が安心して読めた。「サヨナラ~」の著者は場景を鮮やかに描いているが、作中人物の心的描写が粗く直截な気がする。もちろん好みの問題だけれど。

ただ、プロローグとして書かれ、物語にも何度か出てくる詩は逸作。



サヨナライツカ

いつも人はサヨナラを用意して生きなければならない
孤独はもっとも裏切ることのない友人の一人だと思うほうがよい
愛に怯える前に、傘を買っておく必要がある
どんなに愛されても幸福を信じてはならない
どんなに愛しても決して愛しすぎてはならない
愛なんか季節のようなもの
ただ巡って人生を彩りあきさせないだけのもの
愛なんて口にした瞬間、消えてしまう氷のカケラ           



サヨナライツカ

永遠の幸福なんてないように
永遠の不幸もない
いつかサヨナラがやってきて、いつかコンニチワがやってくる
人間は死ぬとき、愛されたことを思い出すヒトと
愛したことを思い出すヒトにわかれる

私はきっと愛したことを思い出す


(第594号)
# by Rika-news | 2010-01-19 15:31 | R40 | Trackback | Comments(0)
15回目の1月17日の朝に
はじかれたように起き、傍らに眠っていた息子を抱き上げ、娘の部屋の扉をはね返るくらいの勢いで開け、玄関に走ってはだしで扉を開けるまで、数秒。

その揺れの大きさよりも、ほとんど動物のようなワタシの動きに、抱かれた息子は異様を感じて泣いた。

一息ついて思考がめぐりだすと、かえって何をどうしていいか分からなかった。子どもたちに袢纏をまとわせ、ガス栓を見て、水道の水を出してみて、壊れた人形を見た。ピアノがひとりでに移動しいていた。

あの日から強く意識するようになった、たまたまという言葉。                 

たまたま、神戸ではなく大阪であの日を迎え、
たまたま、生かされている今を
たまたま、めぐり会えた人たちと
たまたま、手に入れることができたものを携えて
たまたま、遭遇してしまったできごとから逃げずに歩いていこう。

けれど、そこに自分の意志が息づいていることを確認しながら。

(第593号)
# by Rika-news | 2010-01-17 08:46 | ことば・言葉 | Trackback | Comments(0)
ココロ空っぽになりたいかい?
食わず嫌いだったよしもとばななを食ってみようという気になったのは、毎日新聞に連載の「もしもし下北沢」を読むようになってから。

だいたい、ばなななんてヤケクソでつけたとしか思えないペンネームが、ワタシにとってのハードルだった。

でも、今では分かる。ばななでも、ま、いいかというか、ばななが合ってるというか、読んでみてそこまでハードルは低まった。

まだ3作目だけど、今のところいつも必ず1人以上死ぬ。父とか母とか、一人しかいない肉親とかが。

そういう日常がガラッと音をたてて変わってしまう、そのガラッ!に乗じて家族って・・・とか、ホントのやすらぎって・・・とかを飄々のうちに想わせたりする手口、それがばななかしら。もっかのところ。

50歳で妊娠、帝王切開で出産したはいいが、産後の肥立ちが悪くて死んでしまうアルゼンチンババア=「アルゼンチンババア」。圧倒的な美しさと便所の100ワットみたいな明るさを兼ね備えたえり子さん(オカマ)=「キッチン」。

ちょっとグロな2人は、薄っぺらい文庫の中に潜んでいて、恐るべき技巧を駆使してあれよあれよという間に読み手のココロを占拠する。

それでいてポックリ逝ってしまうもんだから、オロオロと空っぽになってしまうココロ。そこで妙にストン!と、ミゾオチあたりに落ちる。

ああ、ココロを軽くするにはいったんは満たされなきゃいけないんだと。満たされてこそ、空っぽになれて、軽くもなれるココロなんだと。

(第592号)
# by Rika-news | 2010-01-16 17:39 | ちょっとイイもの | Trackback | Comments(0)
自分を疑ったことありますか?
毎日苦痛である。灯油売りと廃品回収業者が入れ替わり立ち替わりやって来て、おかげで一日中うるさいんである。

もっと腹立つのは、小学校の登下校に合わせてやってくる子ども安全パトロール車である。うるさいだけでなく、子どもたちがそろって人間不信になるよう仕向けているという意味では問題である。

知らない人に声をかけられそうになったら用心せよだの、不審者を見たら笛や防犯ブザーで周りの人に知らせよと云っている。寄り道せずまっすぐ家に帰りましょーなどと、子どもの発達を妨げることも平気で大声で、しかも毎日云っている。

こういうことを自信を持ってやっている人々は、善人であり、悪気がなく、残酷なまでに鈍感である。正しいことをやっているという安心感から、自らの行動に疑問を持たないという圧倒的強さを持っている。そもそも自分自身を疑うという発想がない。

子どもたちを地域で守りましょう!と叫んでいる。不審者情報を共有しましょう!のノリに、加害者意識は毛頭感じられない。いったい、同じこの世に暮らしながら、どんなイニシエーションを受けたらああいう善人が大量生産されてしまうのか、怯えつつもむかつくばかりである。

そんなこんなで、仕事がはかどらないなぁと思っていると、インターホンが鳴った。聖書を勉強している人たちだ。だが、それが分かるまで、1分くらいかかった。

いきなり「物騒な事件が頻発する世の中になっていますねェ」から始まって、息つぎなしで優しくまくしたてる。そして、「お時間のあるとき、ごいっしょに聖書を・・・」ときた。

時間が有り余っていても絶対にイヤです。興味がないんです。さよなら!と、本音を云うとまたまた世の中を嘆きそうな人たちだったので、仕事中ですので失礼とだけ云った。すると、お邪魔をしてしまって!!とたいそうに謝られた。

そんなに謝るくらいなら、呼んでないのにいきなり来て、息つぎなしで「聖書」にたどり着くまで、1分かかるようなマシンガントークは、どう考えたってやめるべきだ。

ま、何を云っても始まらない。彼らには彼らが理解しやすい方法で臨まなければならない。そこで、旧約聖書「創世記」第4章第13―15節を読んでほしいんである。

そして知ってほしい。あなた方はすべて善人であり、ワタシはカインであることを。カインが日々善人と闘うことに、どれほど身をすり減らしているかということを分かってほしいだけだ。

(第591号)
# by Rika-news | 2010-01-14 18:41 | antiな日常 | Trackback | Comments(0)
また、ひとつ、さよなら
母が生前使っていた家具のほとんどを今日、処分した。永い間、母の人生に寄り添ってきたそれらは、ワタシにとっても想い出深いもの。きしむ音を立てながらトラックに載せられていく家具調度を見送りながら、娘としての自分はもう終わったのだと思った。

箪笥やデスク、ベッドの隅々まで点検し、もう、何もかも空っぽのはずだった。それが、2階の畳の上にどこから舞い落ちてきたのか、古びた紙きれが1枚残されていた。ひらがなで印字されたワタシの名前と幼稚園名が懐かしい通知簿だった。

担任の所見欄を見て吹き出した。ったっく!!読めばとんでもないガキである。美人ではあったがほとんど憎んでいた担任だったから、以心伝心、何を書かれても仕方ないが、そういう事情を差し引いてもワタシは余りある問題児だったようだ。

1学期の所見欄にはこうある。
「入園当時はぼんやりしている事が多かったが、今では社会性も出来、皆の中に入って遊べるようになり、お話も出来るようになった。少々小心で困った時には涙が出る。」

それが2学期になると、
「涙もでず、頑張りのきく子どもになりました。時々、友人に悪いことをして、注意を受けることがあります。」

とうとう3学期には・・・
「幼児にして強い所が有ります。時々、友達と争いを起こす事もありますが、素直にあやまれます。おうたの方も上手にうたえます。」

小心でメソメソしてたガキが、次第に増長していく様子が手に取るように分かる。母の性格からして、さぞかし先を案じただろうに。あまりにも遅すぎるけど、おかあちゃん、スマン!

今でもハッキリと覚えてるが、嫌いな女の子のお弁当に粘土でつくったリンゴやらバナナを入れてあげたことがある。食べるのが遅いその子は、いつまでたっても、のったりくったり弁当箱の中を箸でいじくっていた。

理由などなく、ただ、そうしてみたいからしただけなのに、女の子は火がついたように泣きだした。ワタシは美人の担任に耳をひっぱられ男の子ばかりの場所に連れて行かれ、その日からそこに座らされた。

担任は懲らしめたつもりだったのだろうが、ワタシは周りが男でも女でもあまり気にしていなかったと思う。それ以後イヤだったという記憶がまるでない。この頃、もしもワタシが担任に「逆所見」を書くとしたら、なんと書いただろうか。オトナの言葉を持っていたなら、多分こんなふうかしら。

学年末所見・・・教員にして、何の疑問も感じ得ず単に争いを回避することを善とする指導傾向あり。お化粧の方もきれいにできます。

なんてね。
そんな、こんな想いを呼び覚ましながら、粉雪が舞う日、母とともにあった家具調度は往ってしまいました。

(第590号)
# by Rika-news | 2010-01-13 18:44 | 死ぬことと生きること | Trackback | Comments(0)
誤解も理解の一部分?
最近、幾人かの人たちから似たようなことを云われ、受け止めるたび複雑な気分になった。
もっとも、よくある誤解で、正直、慣らされている部分もなきにしもあらずなんだけれど。

「本当に強いですね」とか、「どうしたら、そんなに強くなれるの」とか、「強さの秘訣は?」なんて同じようなことを、次から次へと。(念のため、酒量のことではありません)。

人間には自我があって、自我の最たるものは自分自身を見せないということに尽きる。強がっている人間ほど弱さを隠しているというわけだ。だから、アナタが見ているワタシの「強さ」は、ワタシの脆さそのものなのです、と云ってさしあげた。

次の人には、お酒がなくてはご飯も食べられず、薬がなくては夜も眠れない。ワタシはそんなへなちょこ人間ですと、ホント―のことも云ってみた。

その次からは、もうめんどくさくなって、オノ・ヨーコのことばを引用させてもらった。

私の人生は絶えず変化しています。変化し続ける運命なのかもしれません。
そんな中で、どんなときでも自分らしくいることが、私にはいちばん大事なことでした。

誰かのまねや、社会の要求に合わせた生き方をすると、どうしても心が弱くなります。

どんな状況でも自分らしくあり続ける。その一点で人はとても強くなれるものです ―後略―
   (「今あたなに知ってもらいたいこと」より)


ま、あながち外れてもいないだろう。当たってる部分と願望がないまぜになって、こんなもんだろ誰だって・・・と云う気がする。ただ、結果として、強くなどぜ~んぜんない自分が、ことばの主とは大違いなだけである。

オノ・ヨーコ。アーティスト。当年とって77歳。とんがってる平和主義者。

(第589号)
# by Rika-news | 2010-01-12 18:18 | antiな日常 | Trackback | Comments(0)
藤田宜永作品にみる恋愛偏差値の高さ
同じ男に、同じ女に、二十数年の時を経て、二度恋をする。

燃えあがり、互いに引きずられながらも、まるで解りきっていたように、二度目も別れを選ぶ二人。互いの存在を日常の中に許してしまうと、そこで恋が終わってしまうから。

恋は日常に殺されていくもの・・・
藤田宜永の鮮やかなメッセージがこの作品にも貫かれている。

家族、血のつながりというものを猜疑の目で見るわけではない。ただ、そういう関係に巣くう甘え、過干渉、ぬくぬくとした惰性に浴びせられる著者の鋭い批判を嗅ぎとるとき、ワタシは著者の次を読みたくなる。

一人の女、美枝子を巡って二人の男が対峙する。樹木医の沢村は美枝子との逢瀬を重ねながら、不安定な関係に生きる高揚感を味わえる男だ。

一方、藤代はあこぎな商売で社会から顰蹙を買ってはいるが、得もいえぬ魅力を持つ男。沢村とは対照的に美枝子との安定した関係を望んでいる。

何をもって充実した生き方と思うか、当然ながら人によってまったく異なる。もしも、美枝子が「柔らかい日差しの中、ハンモックに揺られながら、うたた寝できるような」安定を求める女なら、あるいは藤代のような男を選んだかもしれない。

けれど、藤田作品に登場するヒロインは常にその対極に生きる女である。美枝子はハンモックに揺られるどころか、吹きすさぶ寒風の中、沢村に微笑むとクルリと踵を返し日常へと戻っていく。まるで、戻っていける自分自信があってこそ、恋愛はできるとでも云うように。

一度の人生で、二度同じ男に恋をして、二度とも別れて、自分自身に戻っていける。
カッコよすぎで、恋愛偏差値もきわめて高めである。

(第588号)
# by Rika-news | 2010-01-11 18:41 | R40 | Trackback | Comments(0)
十日戎の楽しみ方、苦しみ方
やることやったら、人間、最後は神だのみ!!
ってわけでもないだろーが、地球規模の大不況を前に、
個人のパワーのなんと非力なこと。

それでもただボサーッとしていられない気質の浪花っ子
とりあえず、今年も参っとこか戎さん!ってことで、
皆、同じよーな想いからか、商売繁盛の守り神大阪今宮戎神社はえげつない人出であった。

人、人、人で、行きたい所へ行かれへんわ
お札買うだけで、人波かきわけてたどり着いたのエエけど、
買うたら、買うたで、もとの流れに戻られへんわ
帽子は飛ばされ、おばちゃんに踏まれるわ、で、もう、わやくちゃ!

踏んでるのに、踏んでるて気づいてないおばちゃんって
むかつくより先にもう、「哀れ」の域である。
おばちゃん、足、足、足!!足のけて!
ほんまに、もうちょっとで帽子どころか、頭ごと踏まれそうで危なかった。

そんな必死の参拝を他人事のように、ニッコリ笑って笹だけ売ってるのが福娘。
この子もあとウン十年の後には、人の帽子踏んでも気づかんおばちゃんになるねんなぁ。
歳月恐るべし。大阪という環境さらに恐るべし。

かく云うワタシも縁起物を売っている露店で、値切る、値切る。
中には縁起ものだから値切ってはいけないという人あり。
でも、それも楽しみのひとつ。値切らなソンというより、おもしろない。

売り手はしょっぱな、ビックラするくらいふっかけてくる。
そこで、おおげさに目をむいて「高い」とは云わず「嘘やろ」って云う。
続けて「ぶさいくな顔の戎さんやのに、負けといて」とすかさず。

「そんなん云うんやったら、こっちのん男前やけど一回り大っきさかい五千円やで」
「大きいのはじゃまんなるだけやん、小ぶりの男前はないのん?」
「ちっちゃい顔を男前に描くのん難しいねん。だいたいこんなもんやで」
「しゃーないね。ほな、大きい男前の方、三千円にして」
「しゃーないね、はこっちのセリフ、3千5百円でもって行け!」

というわけで、コレを買いました。

もともと値段はあって無いようなもの。その場の掛け合いを楽しんだら、そこそこで引きあげるのが大阪流マナーちゅうもんやろと思います。

今年一年、たくさんの福が皆さまのもとにも届きますよーに。

(第587号)
# by Rika-news | 2010-01-10 14:12 | ちょっとイイもの | Trackback | Comments(0)
アナタは今夜・・・
亀井静香の事務所でワタシは政治資金収支報告書とニラメッコしていた。もう少しで総務省に提出する報告書が仕上がるというところで、事務所に来た亀井が云った。大阪市内の地理に詳しいのは誰だったかな、アンタか!(目が合う)今から廻るぞ!大阪を。車を出してくれ!!と。

何で、広島の亀井静香が大阪で挨拶回りやねん…と思ったところで夢から覚めた。何やってんだろーかワタシ。たとえ、こんなおぞましい夢でもレム睡眠から目覚めたのなら質の良い睡眠というべきなのかどうか。目覚めてしばらくだるくて起き上がることができなかった。

昨日の夕方、人と亀井静香について話をした。と云ってもその後、あり得ないくらいオモシロい単行本を読んで、仕事の電話を一本受け、しばらくぶりの人からのメールに長い長い返事を書き、風呂でしこたまドリカムを歌って、で、寝た。

それなのに、なんで亀井静香が夢にでてくるわけ?・・・・理不尽にもほどがある。ほどがあるけど、夢ってのはコントロールできない。だから、あきらめるしかないって云うなら、今朝のワタシはほとんど悲劇だ。

今日の毎日新聞には、「目覚めは夢の途中で」あることが、快適な目覚めの条件!のように書かれているが、ホンマかいな。亀井の夢でも快適な目覚めといえるのか。なんだか一日が呪われてる気がするんだけど。

睡眠にはレム睡眠とノンレム睡眠があるのは広く知られている。レムが浅く夢見る状態。ノンレムが深く新陳代謝をうながし、成長ホルモンがドバーッと分泌される状態。

そりゃもう、できればノンレムオンリーで朝まで眠りたいのは山々なんだけど、眠りが浅~いワタシはレム、レム、レム、そしてレム睡眠で朝を迎えたりする。

ものすごく気持ち悪い夢を3本立てで見たり、逃げて、走って、空まで飛んで息も絶え絶えで心臓が痛くなったりする夢を見る。昔は韓国語で夢を見たり(寝言も韓国語だったそうな)したものだが、今は日本語でも言葉に詰まる場面がある(Goddam!)。


どうしたものか。いつの日かワタシの一日をワタシよりも先にふり返り、その夜見る夢をテキトーに編集しておいてくれる、そんな便利なロボットはできないものか。

先日お話をうかがったロボットクリエーターにリクエストしておきましょうかね。

夢は人を物語る。さぁて、アナタは今夜どんな夢を見るでしょう。

(第586号)


# by Rika-news | 2010-01-08 19:03 | antiな日常 | Trackback | Comments(0)
霙のちアヒル
あ、疲れた、と思って外に出た。てくてく歩いている間に霙(みぞれってこう書くって知らなかった!ワタシ・・・)が降って来た。一瞬、雹(なわけないだろ、冬だし。それにひょうだってこう書くってまたまた知らなかった!)かしらと思ったけど、それは風が強くて、当たりが強かっただけみたい。

前も後ろもだあれも歩いてない。なので、すんごい解放され、酔っぱらってたわけじゃもちろんないのに“All you need is love”(何でコレか?)が口をついて出てきた。ああ、なんて上手!ひとり歩きながら、歌いながらパチパチパチパチパチパチ拍手喝さい。

寒い日は道々歌っても恥ずかしくなんかない。

自分で自分に拍手喝采しても、コレまた、ぜ~んぜん恥ずかしくない。

だって、だあれも歩いてないから。聞いてないから。

ただアヒルだけが寄ってくるだけ。

歌声につられてか、なんか、知らないけど。勘違いして。

(第585号)
# by Rika-news | 2010-01-07 19:03 | antiな日常 | Trackback | Comments(0)
中陰との対話
命の芽生えと終わり。何かと目からウロコを体験したのはワタシの場合「終わり」の方だった(もう決まったように過去形である)。

そう多くもない友人、そこそこつきあいのある知人らの間で、かつてベビーラッシュと呼ぶべき時期があった。あちらへお祝いを届け、こちらへおめでとうと伝えている間に、2~3年後にはその妹や弟が申し合わせたように生まれ、その後数年を経てラッシュは落ち着いた。

今はというと、友人知人、そして自分も含め親世代が相次いで亡くなる、いわばお悔やみラッシュの時期にある。世の習いとして、新しい命の芽生えはただもうメデタクて、現世からの卒業はひとえにカナシミに暮れるもの・・・らしい。

となると、人間、メデタイ時にはあまり深くを思考せず、カナシイ時はうぢうぢと想いに耽るものであるから、人の死によって、ああ、そうだったのかと目からウロコ体験をすることが多いのは当然かもしれない。つまるところ、人の死は何ものか真相や本質を生きる者に遺してくれる気がしている(実感!)。

この本の著者は臨済宗のお坊さんである。物質や数値に還元不能な非科学の領域、つまり、霊や魂や輪廻といった概念がどうも無視されているのではと感じ、この作品を書いたのだそうだ。

なるほど、霊や魂には分子もなければ原子もない。さらに原子核もその周りを廻る電子もないから目に見えない。見えないから無いのかといえば、あると思う者の心には厳然とある。そして、あると思うことで救われる人がいることもまた確かなのである。

仏教であの世とこの世の間にあるとされる中陰。そこにとどまっている死者の魂が、この世の者とぼんやりした交信、あやふやな対話、朧げなやり取りを手探りでする。もどかしいけれど、言葉も身振り手振りも使えない相手なら、しかたない。

そうして交わした魂と魂の行ったり来たりの中で、なんとはなしに両者が納得し、死者の魂はあちら側に成仏し、この世の者は目からウロコの一つも落として、やっと一つの死を受け入れるのかもしれない。

第125回芥川賞を審査員の全員一致で受賞したといわれるこの作品。登場するなり死んでしまう婆さんが極楽について云う場面がある。「信じれば、あるんや。信じられなければ、ない」と。

その時、「月は見ているときにしか存在しないのか」というアインシュタインの言葉が頭をよぎった。

人間が知りえたもの、科学的に証明できたものしかこの世に存在しないなら、なんとつまらない偏狭な世界にワタシたちは棲んでいるのだろうか。

(第584号)
# by Rika-news | 2010-01-04 19:06 | 死ぬことと生きること | Trackback | Comments(2)
福袋と行列と偶然の連鎖
世に何の影響力も持たないと信じている小さな自分が、思いもよらず他人の運命を変えている。時にはその生死さえも。そんな想像を巡らせたことはありませんか。

宝福喜朗。盆と正月が一緒に来たようなメデタイ名前を持った、定年間際のサラリーマンがこの小説の主人公である。といっても、この男、小説の主人公にはおよそ不向きなタイプである。

角がなく、性格は温厚。いたって平均的なフツ―の小市民。強いて特徴をいうなら、フツ―過ぎるくらいフツ―という点だろうか。そんな男が妻と娘に頼まれて、デパートの福袋を求めて行列に並ぶ。

目当ての袋を手に入れるため、雪降る路上で大晦日と元旦を過ごすのだ。そうしている間に妻は別の男に心寄せ、娘はただの女ったらしと年を越している。それでも男の名前が変わるわけじゃない。「宝と福に朗らかに喜ぶ男」に、読者は知らぬが仏という意味を見つける。

宝福が2日間家を空けることがなければ、妻は別の男と過ごすことはなかった。そして、その男は宝福の妻と過ごさなければ、おそらく大晦日の夜に自宅で命を落とす運命にあった。

宝福は自分の妻を誑かす男の命を救っているとも知らず、行列を続ける・・・と、まあ、こう書けば、宝福喜朗がいかにも間抜けでかわいそうな男に見えてくるが、主人公にはその人柄ゆえに舞い降りてくるほのかな幸せというものが描かれている。

話が佳境に入ってくると、宝福はさらに思いがけない二つの事件に巻き込まれていくが、本人はまったくそのことに気づいていないし、気づくはずもない。

小説は読者に作中人物を裏側からのぞかせ、紙一重ですり抜けて行く偶然の連鎖を読ませる。そして、万物の動きは偶然なのか、必然なのかと問いかけてくる。そのために2日間の出来事に、(週刊誌の連載小説とはいえ)436ページを割いている。

デパートの初売りが始まる頃。事件は解決し、宝福は目当ての福袋を手にする。自宅へと向かう宝福が知っているのは、もうひとつ起こるかもしれなかった悲惨な事件が、起こらずにすんだということだけだ。角がなく、温厚で、平均的なフツ―過ぎるくらいのフツ―の感覚が止めさせたもう一つの未遂事件。宝福はそのことに満足する。

さて、今日、メデタク福袋を手に入れたアナタも、そんなものになんの関心もないアナタも、アナタの知らないところでアナタは誰かの運命を変えているかも。今年もどーぞよろしく。

(第583号)
# by Rika-news | 2010-01-02 10:07 | R40 | Trackback | Comments(2)
交互に10回云ってみて
あり得ないだろう…そんなこと。
ワタシは自分を疑った。

あんまり寒いから、一杯ひっかけてからと思っているうちに、二杯ひっかけ、三杯ひっかけ、すっかりいい気分になって年末恒例の夜警団に加わった。

といっても、毎年年末に「火の用心!」と声を張り上げてるわけじゃない。今年は管理組合理事に就いているので、立場上参加しただけである。

みなさん、寒い、寒いと云いながら、威勢よく声をあげながら練り歩いていく。そんな中、自分の口から発したひと声がまぎれもなく「屁の用心!」と聞こえた。

そんなはずないだろうと思いながら、「火」に交じって「屁」が何度も聞こえるので、耳がおかしいのか、口がおかしいのか。頭がおかしいのか。

そう聞こえるのは(そう云ってるのかも)ワタシだけなのか、誰かほかの人が間違えていて、それを正確にワタシだけが聴きとっているのか、ワケわからん状態である。

何合飲もうが足もと乱れず、顔色変えず、それどころかかえって速く走れたり、普段は覚えられない外人の名前がすんなり頭に入ったりする。それがワタシのお酒の特徴だった。

それなのに、ワタシとしたことが。気分はもう、こんな感じなんである。→

(第582号)
# by Rika-news | 2009-12-30 00:29 | R40 | Trackback | Comments(2)
堺市議会 意趣返し応酬のすすめ
堺市議会の迷走ぶりを今日の毎日新聞の余録は痛烈に皮肉っている。クリスマスイブのその日、同市議会は補正予算原案と2つの修正案を否決した。次世代型路面電車LRTの計画中止を公約に当選した竹山修身市長にLRT推進派市議らが補正予算案を可決させまいと愚挙に走っているからだ。  ↓竹山修身堺市長

で、市議会はLRT反対派と賛成派それに、チュートハンパ派も入り乱れての三つどもえの争いの様相。ただ、補正予算案には市民生活に影響を及ぼす予算も一括提案されていたため、補正予算案が全否決となると困るのは市民である。

こうした市議会の迷走ぶりを、余録はニューオリンズを走る路面電車の街路名「欲望という名の電車」「墓場」「楽園」を借りて揶揄するとともに、「希望」と云う名の電車が「民意」を乗せたまま「政争」の谷間を迷走してはハッピーエンドにたどり着けない、と結んでいる。

ま、市民がハッピーエンドにたどり着けないのは、なにも今に始まったことではないが、多数派与党時代が多数派野党時代に代わっても、最弱者にしわ寄せることに変わりない堺市政である。そういう意味では安定している。

一連の迷走は自民、公明などによる現市長への意趣返しが原因とみる市民が大方ではないだろうか。これまた今に始まったことではないが、気にいらんこと、けったくそ悪いことはネチネチと報復し合うのが堺市議会の因習である。

さて、意趣返しとは、果ては戦争に行きつくものであるから本来つつしむべきものである。が、そういう方法でしか万事理解することが困難な人々がこの世にいることも現実。ことにワタシが見てきた堺市議会にはそういう議員が多い。

という現実をわきまえたうえで、徹底的に竹山市長も市議会限定でやったらよろしい。意趣返しを。手始めに市議会各会派と各議員の政務調査費の収支報告書および領収書を市長権限で徹底的に調査する。トイレの芳香剤だの、ゴキブリホイホイだの、きざみネギなどという人を食ったような調査研究費は片っぱしから返還させる。

アホ議員らは悲しいかな、市財政に最終責任を負うべき市長の調査権限を無視することはできないはずだ。全額返還せよ!そうのたまったうえで云ってやればよい。「星原卓次議長(公明党)はなにを調べとんねん!副市長候補のアラ探しより、収支報告書の精査が先やろ」ってね。→星原卓次市議会議長

その後は議員関連の補助金を1円残らず切り捨てる。特に、何十年も親の代から甘い汁を吸い続けてるような団体はすっぱり切ることだ。それで、甘い汁、うまい汁目当ての票田も切れるなら、一石二鳥ではないか。

おっと、どっこい、誤解されては迷惑だから言っておくが、ワタシは竹山市長のシンパではない。

ただ、どのみちしばらく堺市議会は意趣返し応酬の世界。「議会のご協力を得て」などときれいな御託を並べるよりも、一つでも、二つでもこの期に乗じて竹山市長が目指す市政全般の「見える化」を進めてはどうか。そういうことである。

(第581号)
# by Rika-news | 2009-12-28 18:23 | 議員を穿つ・政治を穿つ | Trackback | Comments(0)
芋はフルーツ!
アナタの病気に効きそうな良薬を送っておきました。そんなメールが着信した翌日、コレが届いた。

しかも「赤芋の花」は・・・ま、いいとして、「魔界への誘い」ときたもんだ。誰が、どういうつもりでネーミングしたのか、ビミョーに挑発的である。

魔界とは云わずと知れた悪魔の世界。フツ―、そんなところへイザナわれても、だ~れも自分からノコノコやってく者などおりませぬ。

そういうことを承知の上でネーミングしたからには、発売元はターゲットをイチビリと拗ね者においていることは明らかである!

そして、そういうネーミングの意図を嗅ぎとって、数ある焼酎の中からまんまと「魔界~」を選びとってくれたその人も間違いなくイチビリである。

と、まあ、そんなこんなはさておいて、早速「魔界~」を口に含んでみた。完璧にフルーティである。いつも泡盛や焼酎をいただくたび、ワタシは芋が世間から受ける評価と云うものに心痛める。

だって、そうじゃありませんか。「芋」って聞いて、書いて、口にして、さらにこの字面からどんなイメージが定着しているでしょう。

でも、芋の醸す繊細な風味を知る者は、「芋」をありがちなイメージでとらえたりせず、まして、ダサい輩を芋などとは決して表現しえないのであります(そう云う場合はタコを用います)。

さらに、世界中の皆の衆が芋を単に穀類と分類しようが、ワタシは最後の一人になっても「飲む芋」はまちがいなくフルーツだと云いきる覚悟ができているのだ。

それがどーした。と云われたら、どーもしませんが。お送りいただいた方には、この場を借りて、ありがとね。

追白:イモはイモ類だべと教えるものあり。胚芽部分がないじゃんと!と。突っ込まれ時刻19時10分。
   
(第580号)
# by Rika-news | 2009-12-27 16:35 | ちょっとイイもの | Trackback | Comments(0)
ジャズはお好き?
覚せい剤取締法違反で逮捕、収監されたニュースキャスターが府中刑務所内で放送されるラジオ番組にリクエストした曲。それがエリック・ドルフィーの「ネイマ」。

キャスター時代から彼がこの曲を好んで聴いてたのを知っていたDJは、思いを込めたメッセージとともに番組の最後に「ネイマ」を流した。

とまあ、小説の中の話なんだけど(スンマセン)。読み終えてからも、妙にエリック・ドルフィーの「ネイマ」が気になって仕方なく、で、聴いてみました。

第一印象は、こりゃぁ踊れる・・・第二印象、っていうか踊ってみたい(ん?)、その後は、どこで踊れるかなって・・・(オイオイ!)と、なんだか困った展開になりそーで、今はなるべくほかのことを考えるようにしている次第。

さて、ワタシ的には「ネイマ(NAIMA)」もいいけど、ジョン・コルトレーンとのコラボが素敵な「MY FAVOURITE THINGS」がお気に入り。よく耳にする曲だけど、きちんと聴いたのは初めてでタイトルも知らなかった。

たぶん、アレです。「名探偵ポワロ」の挿入曲!・・・と云いきってしまうと、違うんじゃないのと、もう一人の自分が云うので、自信なし!

あ、では、ではアレだ。20年くらい前に北浜の…ホレホレ…何とかいうバーでかかってたっぽい曲ではあるんだけど・・・・なんていったかな店の名前。というふうに、なんの手がかりもお示しできない話がめっきり増えた今日この頃である。

でも、ジャズ。だ~い好き!!なんだけど・・・ドルフィーのバス・クラリネット、コルトレーンのテナー・サックスを聴いていると、聴いてるワタシの指がつりそうになるのは、どうして?

(第579号)
# by Rika-news | 2009-12-26 18:58 | ちょっとイイもの | Trackback | Comments(0)
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